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Back to the Dancing Dinosaur

フランキー・マニングリンディホップの親善大使

 

ダンサーとして、改革者として、振付家として、フランキー・マニングほどリン ディホップに貢献した人物はかつてない。彼はいわば私設の「リンディホップの大使」といえる。30年代および40年代には、ホワイティー・リンディホッ パーズとして公演を続け、3大陸にまたがりその人気を広めた。現在、1980年代 および90年代のリンディホップのリバイバルの渦中、後進の指導をしながら、 振付師として、また舞台ダンサーとして、活躍を続けている。

80才の誕生日には、フランキーとそのダンスに敬意を表して、「キャント・トッ プ・ザ・リンディホップ(リンディホップは止められない!)」というイベントがニューヨークで催された。世界中の一流のリンディホッパーズが集まり、彼の年齢にちなんで、「80」人の女性がフランキーとのバースデーダンスを楽しんだ。フランキーがリンディホップを世の中にブレークさせてから長い年月がたっているが、これこそが彼らが健在であることの紛れもない証といえる。

フランキーがダンスを始めたのは10代のはじめで、ヴァーノン・アンドラーデが ハーレムのアルハンブラ・ボールルームのサンデー・アフタヌーン・ダンスで演奏した時ことだった。そこから彼はルネッサンス・ボールルームに移るのだが、そこではクロード・ホプキンズ・オーケストラのスイング・ライブにあわせ、少し年長のティーンズのために夕方にダンスパーティーが開かれていた。そしてついにフランキーは素晴らしいダンサーとバンドで知られるサヴォイ・ボールルームへと「進学」した。

才能溢れるばかりでなく競争心旺盛なフランキーは、サヴォイの上級ダンサーた ちだけが集うことを許される「キャッツ・コーナー」でのジャム(非公式なデモのようなもの)でスター的存在にのしあがり、サタデーナイトコンテストで頻繁に勝利をおさめ、ついにはエリート400クラブへのチケットを手に入れた。その メンバーだけはサヴォイ・ボールルームに昼間に来て、その夜に演奏予定のバンドにあわせて練習することを許されていたのだ。

フランキーの踊りは、たとえサヴォイ・ボールルームの大物達の中に入っても、 その確実な音楽性において際立っていた。持ち前の足さばきと鋭い耳を生かし、ビッグバンドの演奏する音楽のビートと感触、そして興奮を身体で表現した。

フランキーはジョージ”ショーティー”スノーデン やリロイ”ストレッチ”ジョーンズなどの第1世代リンディホッパーズに触発されたが、サヴォイ・ボールルームにて催される激しいコンペにおいてこれらの2人の偉大なダンサーをこえるために、独自のスタイルを編み出さなければならなかった。彼こそリンディホップ独特のステップとスタイルを生み出した張本人といえる。それまでは、垂直にまっすぐ立つ社交ダンスのポジションが主流であったが、それに代え、まるでトラック走者のごとく、体を地面に水平に保って踊るスタイルをついに誕生させた。

そしてある有名なコンペの決勝で、フランキとそのパートナー、フリーダ・ワ シントンはショーティとそのパートナー、ビッグ・ビーと、ついに対決することになった。フランキーとフリーダは、世界で初めてリンディホップの空中ステップを披露し、2000人の大観衆をあっと言わせてしまった! そして勝利の女神は微笑んだ。